高齢の入居者との契約で、ときどき出会うのが「本人の理解が、契約の内容に追いついているのだろうか」という迷いです。日常のやり取りは問題なく交わせていても、更新や特約の説明になると反応が曖昧になる——現場ではめずらしくない場面ですが、対応の型を持っている会社は多くありません。高齢入居者とのコミュニケーション設計の記事は入居前・契約時・入居中・退去時という日常の伝え方を扱いましたが、本記事はその手前にある、契約行為そのものが法的に成立する条件と、判断能力が低下した場合の法的な受け皿を切り出して整理します。
内閣府「令和8年版高齢社会白書」によれば、令和4年(2022年)時点で65歳以上の認知症高齢者数は443万2千人・有病率12.3%、軽度認知障害(MCI)は558万5千人・15.5%と推計されており、令和22年(2040年)には認知症584万2千人・14.9%、MCIは612万8千人・15.6%に増えると見込まれています[1]。契約実務の現場でこの層と一度も接しないという想定のほうが、むしろ現実的ではありません。
まず契約が成立する条件を確認する——意思能力とは何か
民法第3条の2は「法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。」と定めています[2]。賃貸借契約も法律行為である以上、この規定の対象です。ここでいう意思能力とは、自分の行為の結果を判断できる能力を指し、明確な年齢や診断名で線引きされるものではなく、契約の内容や複雑さに応じて個別に判断されます。認知症の診断を受けていること自体が、直ちに意思能力の欠如を意味するわけではありません。診断名ではなく、その契約の内容を理解し判断できていたかどうかが問われる、という点は現場で誤解されやすいところです。
一方で、意思能力を欠く状態で締結された契約は無効ですから、更新や特約変更の場面で本人の理解が伴っていないまま手続きを進めることは、後になって契約の有効性そのものが争われる可能性を残します。判断に迷う場合に現場が拠り所にできるのが、次に説明する成年後見制度です。
判断能力の程度に応じた3つの受け皿——後見・保佐・補助
法務省のQ&Aによれば、成年後見制度は「認知症、知的障害、精神障害などの理由で判断能力の不十分な方々を保護し、支援する」制度で、財産管理や介護サービスの契約などを本人に代わって行い、悪質商法などの被害から守る仕組みとして説明されています[3]。家庭裁判所が後見人等を選ぶ法定後見制度には、判断能力の程度に応じて3つの類型が用意されています。厚生労働省「成年後見はやわかり」の整理では、補助は重要な手続・契約の中でひとりで決めることに心配がある方、保佐は重要な手続・契約などをひとりで決めることが心配な方、後見は多くの手続・契約などをひとりで決めることがむずかしい方が対象とされています[4]。
法定後見では、家庭裁判所によって選ばれた後見人等が、類型に応じた範囲で本人を代理したり、本人が締結した契約を取り消したりできます[3]。つまり類型によっては、入居者本人が署名した更新契約であっても、あとから取り消される可能性がある、ということです。契約の相手方が誰なのか(本人か、後見人等か)を、更新のタイミングで確認しておく実務上の意味はここにあります。
任意後見という選択肢——判断能力があるうちに備える
法定後見が判断能力の低下後に家庭裁判所が動く制度であるのに対し、任意後見制度は本人がまだ判断能力を持っている段階で、あらかじめ自ら選んだ人(任意後見人)と、任せたい事務の内容を契約で決めておく仕組みです[3]。ただし任意後見には法定後見にあるような取消権がなく、任意後見契約で定めた範囲内でしか代理できません[3]。本人が締結した契約をあとから取り消すことはできないため、判断能力がすでに大きく低下している場面では、法定後見への切り替えが検討されることになります。
入居者や家族から「任意後見契約を結んでいる」という説明を受けた場合、それは判断能力が低下する前の備えであって、法定後見のような取消権を伴わない点は押さえておく必要があります。契約の相手方としての実務対応は、締結している契約の種類によって変わります。
成年後見制度は実際どう使われているか——申立ての実態を数字で見る
最高裁判所事務総局家庭局「成年後見関係事件の概況―令和6年1月~12月―」によれば、令和6年(2024年)の申立件数は合計41,841件(前年40,951件、対前年比約2.2%増)で、内訳は後見開始28,785件、保佐開始9,156件、補助開始3,026件、任意後見監督人選任874件です[5]。開始原因としては認知症が61.9%で最多、次いで知的障害9.7%、統合失調症9.2%となっています[5]。
申立ての動機(複数選択)は、預貯金等の管理・解約が92.7%で最も多く、身上保護73.5%、介護保険契約44.7%、不動産の処分36.0%と続きます[5]。賃貸借契約そのものが動機の項目として個別に集計されているわけではありませんが、身上保護・介護保険契約という上位の動機は、住まいに関わる場面と地続きです。申立人としては市区町村長が23.9%(9,980件)で最も多く、本人自身23.5%、本人の子19.3%と続いており[5]、身寄りが乏しい入居者の場合は自治体が動く経路があることも押さえておきたい点です。連帯保証人がいない場合の実務対応の記事で扱った、身寄りの薄い入居者への対応とも重なります。なお本人の年齢は65歳以上が男性で71.6%、女性で85.6%を占めており[5]、制度の主な利用層は高齢者です。
「後見人がいれば安心」ではない——意思決定支援という考え方
後見人等が選任されていれば、あとは後見人に任せればよい、という理解は正確ではありません。2020年(令和2年)10月、最高裁判所・厚生労働省・専門職団体で構成される意思決定支援ワーキング・グループは「意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン」を公表しました[6]。策定の背景には、2000年の制度発足以来「財産保全の観点のみが重視され、本人の意思尊重の視点が十分でない」という課題が指摘されてきたことがあります[6]。
ガイドラインは意思決定支援の基本原則として、①すべての人は意思決定能力があることが推定される、②本人が自ら意思決定できるよう実行可能なあらゆる支援を尽くさなければ代行決定に移ってはならない、③一見不合理に見える意思決定でも、それだけで本人に意思決定能力がないと判断してはならない、という3点を掲げています[6]。後見人等であっても、本人に代わって決める「代行決定」に移るのは、意思決定支援を尽くしてもなお本人の意思決定や意思確認が困難な場合に限られる、という位置づけです[6]。
不動産会社にとっての意味は、後見人等が付いているかどうかにかかわらず、本人への説明を省略しないという姿勢そのものです。更新や特約の説明は、後見人等が同席する場合でも本人に向けて行い、理解や反応を確認する。これは日常のコミュニケーション設計の記事で扱った「誰に・何を・どの書面で伝えるか」という設計の延長線上にあります。
もう一つの選択肢——日常生活自立支援事業
成年後見制度ほど重い手続を必要としない仕組みとして、日常生活自立支援事業があります。厚生労働省によれば、対象は認知症高齢者、知的障害者、精神障害者等のうち判断能力が不十分な方で、かつ本事業の契約内容について判断し得る能力を有していると認められる方です[7]。実施主体は都道府県・指定都市社会福祉協議会で、福祉サービスの利用援助、日常的な金銭管理(預金の払い戻し・解約など)、住宅改造や行政手続に関する援助などを、利用者との契約に基づいて行います[7]。
成年後見制度との違いは、本事業自体の契約内容を理解できることが利用の前提になっている点です。つまり判断能力の低下がまだ軽度で、契約という行為自体は成立する段階の人を対象にした仕組みで、判断能力がさらに低下した場合は成年後見制度への移行が想定されます。この事業の窓口は市区町村の社会福祉協議会が担うことが多く、居住支援協議会の記事で扱った連携先の一つとも重なります。
現場でできること——契約の場面での実務対応
ここまでを踏まえ、契約の場面で確認できる実務のポイントを整理します。
1. 契約の相手方を確認する。後見人等が選任されている場合、更新や特約変更の契約当事者は本人ではなく後見人等になる場面があります。契約書に署名するのは誰か、代理権の範囲はどこまでかを、更新のタイミングで確認します。
2. 本人への説明を省略しない。後見人等が同席していても、本人に向けて説明し、反応を確認する姿勢は意思決定支援の基本原則[6]と重なります。理解が難しい様子が見られても、それだけで判断能力がないと決めつけない、という原則も同様です。
3. 判断に迷う場面は、相談できる窓口につなぐ。後見等の利用が始まっていない入居者について契約の有効性に疑いが生じた場合、不動産会社の側だけで法的な判断を下すのは適切ではありません。地域包括支援センターや社会福祉協議会、居住支援協議会など、相談できる窓口をあらかじめ把握しておくと、個別の場面で動きやすくなります。生活の崩れが部屋へのゴミの堆積として表に出た場合の窓口とつなぎ方は、高齢の入居者の部屋がゴミ屋敷に——大家・管理会社ができること、できないことで扱っています。
4. 日常の変化に気づく仕組みを持つ。判断能力の低下は、ある日突然表面化するのではなく、日々のやり取りの中で緩やかに現れることが多いとされます。同居家族がいない入居者では、この変化に周囲が気づくタイミングが遅れがちです。定期的な安否確認・見守りの仕組みは、判断能力の変化に気づく接点としても機能します。選び方は見守りサービスの選び方の記事に整理しており、サービスの実例として判断能力の低下に気づける安否確認の方法を見ることができます。
契約の有効性や個別の対応が適切かどうかは、事案ごとの事情によって判断が分かれます。本記事は制度の全体像を整理したものであり、個別の契約対応や法的な判断については、司法書士・弁護士等の専門家、または地域の相談窓口に確認することをおすすめします。日常のコミュニケーション設計は冒頭で挙げた高齢入居者とのコミュニケーション設計の記事を、相談先の広げ方は居住支援協議会の記事をあわせてご覧ください。
なお、後見人が選任されたあとに賃貸借契約を終わらせる場面では、居住用不動産の処分について家庭裁判所の許可が要ります。その手順は入居者が施設に入るとき、賃貸借契約は誰が解約するのか——本人が手続きできない場合の実務で整理しました。
- 内閣府「令和8年版高齢社会白書(全体版)」第1章第2節2 健康・福祉(令和4年〈2022年〉の65歳以上の認知症高齢者数443万2千人・有病率12.3%、軽度認知障害〈MCI〉558万5千人・15.5%/令和22年〈2040年〉は認知症584万2千人・14.9%、MCI 612万8千人・15.6%)。cao.go.jp(PDF)
- 民法第3条の2(意思能力)「法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。」e-Gov法令検索「民法」。laws.e-gov.go.jp
- 法務省「成年後見制度・成年後見登記制度Q&A」Q1(成年後見制度の概要=判断能力の不十分な方を保護・支援し、財産管理や介護サービスの契約等を本人に代わって行う)・Q2(法定後見制度と任意後見制度の違い=法定後見は家庭裁判所が後見人等を選任し一定の範囲で代理・取消しができる、任意後見は本人が事前に契約で定めた範囲内でのみ代理でき取消権はない)。moj.go.jp
- 厚生労働省「成年後見はやわかり」成年後見制度の種類(補助=重要な手続・契約の中でひとりで決めることに心配がある方が対象/保佐=重要な手続・契約などをひとりで決めることが心配な方が対象/後見=多くの手続・契約などをひとりで決めることがむずかしい方が対象)。guardianship.mhlw.go.jp
- 最高裁判所事務総局家庭局「成年後見関係事件の概況―令和6年1月~12月―」(申立件数合計41,841件・前年40,951件・対前年比約2.2%増/後見開始28,785件・保佐開始9,156件・補助開始3,026件・任意後見監督人選任874件/開始原因は認知症61.9%・知的障害9.7%・統合失調症9.2%/申立ての動機は預貯金等の管理・解約92.7%・身上保護73.5%・介護保険契約44.7%・不動産の処分36.0%/申立人は市区町村長23.9%〈9,980件〉・本人23.5%・本人の子19.3%/本人が65歳以上の割合は男性71.6%・女性85.6%)。courts.go.jp(PDF)
- 意思決定支援ワーキング・グループ(最高裁判所・厚生労働省・日本弁護士連合会・成年後見センター・リーガルサポート・日本社会福祉士会)「意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン」(2020年〈令和2年〉10月30日公表。意思決定支援の基本原則=①全ての人は意思決定能力があることが推定される、②本人が自ら意思決定できるよう実行可能なあらゆる支援を尽くさなければ代行決定に移ってはならない、③一見不合理に見える意思決定でも、それだけで本人に意思決定能力がないと判断してはならない)。courts.go.jp(PDF)/解説ページ:courts.go.jp
- 厚生労働省「日常生活自立支援事業」(対象=認知症高齢者・知的障害者・精神障害者等のうち判断能力が不十分で、かつ本事業の契約内容について判断し得る能力を有していると認められる方/実施主体=都道府県・指定都市社会福祉協議会/支援内容=福祉サービスの利用援助、日常的金銭管理、住宅改造・行政手続に関する援助等)。mhlw.go.jp